「宝蔵自ずから開けて、受用如意ならん」

先日、当院の檀家さんであり、友人でもある方から、坐禅をしたいとご相談があり、早朝訪ねてきてくれました。

少し体操をしたり、雑談をしたりして身体と心をほぐしたのち、足の組み方や姿勢など指導して、30分ほど一緒に座りました。

坐禅をするのは、まったく初めての経験だったそうですが、坐禅のポイントをいち早く掴み、坐禅の楽しさの片鱗を感じられていたようです。

私自身、修行時代に教わった坐禅の作法や坐禅に臨む態度など、それだけでは坐禅に対する理解は不十分であると感じていて、もう一歩進んだ理解のために学んでいた事を少しお伝えできて嬉しかったです。

坐禅をしたことがない方や、正しい認識で坐禅をした事がない方には、坐禅とは退屈なものと感じられるかもしれません。

ですが、ただ静かに座っている事が、快楽や娯楽に溢れた現代人の私たちであっても、こんなにも楽しく満たされるものだと気がつきました。

ただし、楽しさの質はまったく違います。

本来の自分に立ち返るような、ただそこに存在している事に満足するような、そんな純粋な楽しさです。

坐禅が深まると、命が深まっていくのを感じます。正確には、命は元から深いのですが、日常の中でそれを大事にすることが出来なくなってしまって、気がつけなくなってしまっています。それを坐禅を通して思い出し、元の場所に落ち着くようになる、というような感じです。

ただし、坐禅に目的を持ち込むと、坐禅から遠く離れてしまう、という危うさもあります。坐禅は、心を何かの対象に想いを向けて集中するとか、息の数を数えるとか、そういった瞑想法の一つではありません。

自分が作り出す事(諸行といいます)を、全て自然の成り行きに任せきってはじめて、贈り物のように現れてくる、それが坐禅の秘めた力であるようです。

道元禅師曰く、「宝蔵自ずから開けて、受用如意ならん」

いつか小さな坐禅会でも出来たらいいなぁと思っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です