『修証義』第三章「受戒入位」現代語訳

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曹洞宗独自の宗典(お経)の『修証義(しゅしょうぎ)』の現代語訳をしました。今回はその三章です。

第二章で身体と言葉と心の行いを懺悔した私たちに、この章では、仏・法・僧への三帰依・三種の清浄戒・十種の禁止戒の十六条の仏戒を受けることによって仏さまの世界へ入門し、さらに悟りを求める心、発菩提心が目覚める事が説かれています。

下記リンクから第一章と第二章の翻訳したものが閲覧できます。


(つぎ)には(ふか)仏法僧(ぶっぽうそう)三宝(さんぼう)(うやま)(たてまつ)るべし、(しょう)()()()えても三宝(さんぼう)供養(くよう)(うやま)(たてまつ)らんことを(ねご)うべし、西天東土仏祖正伝(さいてんとうどぶっそしょうでん)する(ところ)恭敬(くぎょう)仏法僧(ぶっぽうそう)なり。〈第十一節〉

次には、仏・法・僧の三宝を敬い、拠り所としましょう。生まれ変わっても、この姿が変わってしまったとしても、仏・法・僧を供養しようと願いましょう。インドから中国を経て、この日本へ祖師方が伝えて下さったのは、仏・法・僧を敬い、拠り所として生きる事です。


()薄福少徳(はくふくしょうとく)衆生(しゅじょう)三宝(さんぼう)名字(みょうじ)()()(たてまつ)らざるなり、(いか)(いわん)帰依(きえ)(たてまつ)ることを()んや、(いたずら)所逼(しょひつ)(おそ)れて山神鬼神等(さんじんきじんとう)帰依(きえ)し、(あるい)外道(げどう)制多(せいた)帰依(きえ)すること(なか)れ、(かれ)()帰依(きえ)()りて衆苦(しゅく)解脱(げだつ)すること()し、(はや)仏法僧(ぶっぽうそう)三宝(さんぼう)帰依(きえ)(たてまつ)りて、衆苦(しゅく)解脱(げだつ)するのみに(あら)菩提(ぼだい)成就(じょうじゅう)すべし。〈第十二節〉

ですが、まだ機会を得ていない衆生は三宝の名前さえ聞いた事がありません。まして、どのように仏・法・僧を拠り所とする事ができるでしょうか。迫り来る迷いや不安によって、自分を苦しめるだけの怪しい偶像を拠り所とする事を止めましょう。それでは本質的な苦しみを乗り越えることは出来ません。早く仏・法・僧の三宝に帰依して、苦しみを乗り越えるだけでなく、人生の目的を成し遂げましょう。


()帰依(きえ)三宝(さんぼう)とは(まさ)浄信(じょうしん)(もっぱ)らにして、(あるい)如来(にょらい)現在世(げんざいせ)にもあれ、(あるい)如来(にょらい)滅後(めつご)にもあれ、合掌(がっしょう)低頭(てい ず)して(くち)(とな)えて(いわ)く、南無帰依仏(なむきえぶつ)南無帰依法(なむきえほう)南無帰依僧(なむきえそう)(ほとけ)()大師(だいし)なるが(ゆえ)帰依(きえ)す、(ほう)良薬(りょうやく)なるが(ゆえ)帰依(きえ)す、(そう)勝友(しょうゆう)なるが(ゆえ)帰依(きえ)す、仏弟子(ふつでし)となること(かなら)三帰(さんき)()る、(いず)れの(かい)()くるも(かなら)三帰(さんき)()けて其後(そののち)諸戒(しょかい)()くるなり、(しか)あれば(すなわ)三帰(さんき)()りて得戒(とっかい)あるなり。〈第十三節〉

三宝に帰依するとは、お釈迦様が生きていらっしゃった時でも、お亡くなりになった後でも、清らかな信心の心をもって手を合わせ頭を下げ、「南無帰依仏・南無帰依法・南無帰依僧」と唱えます。仏さまは道を示してくださる先生であるから帰依します、仏さまの説いてくださった法は苦しみを乗り越える薬であるから帰依します、僧は共に苦しみを乗り越えようとする友であるから帰依します。仏さまの弟子になるには、まず初めに必ず仏・法・僧の三宝に帰依し、その後に戒を授かります。


()帰依(きえ)仏法僧(ぶっぽうそう)功徳(くどく)(かなら)感応道交(かんのうどうこう)するとき成就(じょうじゅう)するなり、(たと)天上人間地獄鬼畜(てんじょうにんげんじごくきちく)なりと(いえど)も、感応道交(かんのうどうこう)すれば(かなら)帰依(きえ)(たてまつ)るなり、(すで)帰依(きえ)(たてまつ)るが(ごと)きは生生世世在在処処(しょうしょうせせざいざいしょしょ)増長(ぞうちょう)し、(かなら)積功累徳(しゃっくるいとく)し、阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)成就(じょうじゅう)するなり、()るべし三帰(さんき)功徳(くどく)()最尊最上(さいそんさいじょう)甚深(じんじん)不可思議(ふかしぎ)なりということ、世尊(せそん)(すで)証明(しょうみょう)しまします、衆生(しゅじょう)(まさ)信受(しんじゅ)すべし。〈第十四節〉

この仏・法・僧へ帰依する功徳は、私たちが「仏さまの慈悲を感じる心」と「仏さまがそれに答えようとする働き」が交わって共鳴する時、必ず現実のものとなって現れてきます。たとえ天人や人間、地獄や鬼畜のような世界であったとしても、変わりはありません。すでに帰依しているならば、どれほど生まれ変わろうとも、この功徳は増長し積み重なって、いずれ物事を正しくとらえる仏さまの智慧を得ることができます。

このように、この三帰依の功徳は、最も尊く優れていて、深く、人間には計り知れない不思議な力がある事をお釈迦さまはすでに証明して下さっています。この事を信じて受け止めなくてはなりません。


(つぎ)には(まさ)三聚浄戒(さんじゅじょうかい)()(たてまつ)るべし、第一(だいいち)摂律儀戒(しょうりつぎかい)第二(だいに)摂善法戒(しょうぜんぼうかい)第三(だいさん)摂衆生戒(しょうしゅじょうかい)なり、(つぎ)には(まさ)十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)()(たてまつ)るべし、第一(だいいち)不殺生戒(ふせっしょうかい)第二(だいに)不偸盗戒(ふちゅうとうかい)第三(だいさん)不邪婬戒(ふじゃいんかい)第四(だいし)不妄語戒(ふもうごかい)第五(だいご)不酤酒戒(ふこしゅかい)第六(だいろく)不説過戒(ふせっかかい)第七(だいしち)不自讃毀佗戒(ふじさんきたかい)第八(だいはち)不慳法財戒(ふけんほうざいかい)第九(だいく)不瞋恚戒(ふしんにかい)第十(だいじゅう)不謗三宝戒(ふぼうさんぼうかい)なり、上来三帰(じょうらいさんき)三聚浄戒(さんじゅじょうかい)十重禁戒(じゅうじゅうきんかい)()諸仏(しょぶつ)受持(じゅじ)したまう(ところ)なり。〈第十五節〉

仏・法・僧の三宝に帰依した次には、三種の清浄戒を受けるべきです。第一に一切の不善を行わないよう努める事、第二に一切の善い行いに励む事、第三にこの世に生きるすべてのもののために力を尽くす事、この三種です。

次は、十種の禁止戒を受けるべきです。第一不殺生戒(生き物の命を大切にする事)、不偸盗戒(他人の物を盗まない事)、不邪淫戒(道ならざる愛欲を犯さない事)、不妄語戒(嘘をつかない事)、不酤酒戒(酒に溺れない事)、不説過戒(人の過ちを言いふらさない事)、不自賛毀他(自画自賛したり誰かをけなさない事)、不慳法財戒(物惜しみをしない事)、不瞋恚戒(怒りに飲み込まれない事)、不謗三宝戒(仏・法・僧の三宝を誹謗しない事)、この十種です。

仏・法・僧への三帰依、三種の清浄戒、十種の禁止戒は、遥か昔から諸々の仏さまたちが受け継ぎ、護ってきたのものなのです。


受戒(じゅかい)するが(ごと)きは、三世(さんぜ)諸仏(しょぶつ)所証(しょしょう)なる阿耨多羅三藐三菩提金剛不壊(あのくたらさんみゃくさんぼだいこんごうふえ)仏果(ぶっか)(しょう)するなり、(たれ)智人(ちにん)欣求(ごんぐ)せざらん、世尊(せそん)(あき)らかに一切(いっさい)衆生(しゅじょう)(ため)(しめ)しまします、衆生(しゅじょう)仏戒(ぶっかい)()くれば(すなわ)諸仏(しょぶつ)(くらい)()る、(くらい)大覚(だいがく)(おな)じうし(おわ)る、(まこと)()諸仏(しょぶつ)(みこ)なりと。〈第十六節〉

戒を受けるという事は、過去・現在・未来の仏さまたちが実証する、最高の悟りであり、永劫に揺るぐ事がないダイヤモンドのように堅い仏さまの果報を自ら実証していくという事です。{修行と悟りとは別のものではなく、戒を守っていく正しく生活することが悟りである、という事}

賢い人なら誰が求めないことがあるでしょうか。お釈迦さまはすべての人々のために示して下さいました。「仏戒を受けたならば、仏の世界へ入門したという事です。偉大な仏たちと同等になった、ということです。真にこれは仏たちの子供なのです」と。


諸仏(しょぶつ)(つね)此中(このなか)住持(じゅうじ)たる、各各(かくかく)方面(ほうめん)知覚(ちかく)(のこ)さず、群生(ぐんじょう)(とこしな)えに此中(このなか)使用(しよう)する、各各(かくかく)知覚(ちかく)方面(ほうめん)(あらわ)れず、是時十方法界(このときじっぽうほっかい)土地草木牆壁瓦礫(とちそうもくしょうへきがりゃく) 皆仏事(みなぶつ じ)()すを(もっ)て、(その)(おこ)(ところ)風水(ふうすい)利益(りやく)(あずか)(ともがら)皆甚妙不可思議(みなじんみょうふかしぎ)仏化(ぶっけ)冥資(みょうし)せられて(ちか)(さと)りを(あら)わす、(これ)無為(むい)功徳(くどく)とす、(これ)無作(むさ)功徳(くどく)とす、()発菩提心(ほつぼだいしん)なり。〈第十七節〉

仏さまたちは常に、この仏戒を保つ修行を続けているので、あらゆる場所や場面で、何かを煩わせるような跡を残す事はありません。仏戒を受けたものたちも仏戒を護る生活によって、好き嫌いが出て心が捉われたり、煩わされる事がありません。

この時、世界中の大地や草木、垣根や壁、瓦や小石であっても、皆それぞれが仏さまの行いをしていて、それらが起こす風や水などの恵みを受けるものたちはすべて、人智を越えた深く不思議な仏さまの働きに知らず知らずに導かれて、本来自分自身に具わっていた悟りに目覚めることになります。これは、人為やはからいを越えた、仏さまの功徳といいます。これが発菩提心、悟りを求める心を発す、ということなのです。


◎参考文献

『対照 修証義 1分3分5分法話実例集成』 池田魯山

『″そのままのあなた″からはじめる「修証義」入門』 大童法慧

『「正法眼蔵」全巻解説』 木村清孝

『新訳 修証義』 上田祖峯

『修証義』 洞松寺 現代語訳本

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