『修証義』第一章「総序」 現代語訳
曹洞宗独自の宗典(お経)の『修証義(しゅしょうぎ)』の現代語訳をしました。葬儀や法事の際に読むことが多いですが、『修証義』とは日本曹洞宗の開祖道元禅師が著わされた『正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)』という膨大な書物を、明治時代になって一般に向けて分かりやすくその文言を抜き出し編纂されたものです。仏教の教えを日常生活の中で生かす沢山のヒントが示されているのですが、明治時代に編纂されたものなので現代的に分かり辛いのは否めません。
『修証義』は第一章から第五章、全三十一節で構成されています。
今回現代語訳した、第一章「総序(そうじょ)」には仏教の基本的な考え方や教え、人生のあり方が述べられています。
『修証義』にはすでにたくさんの解説本があります。自分の勉強のため、またはこのサイトに興味を持っていただいた方のために訳しました。正確に訳すというよりも誰にでも分かりやすく訳す事を心がけています。また、訳した中で必要だと感じた部分には{ }にて、さらに分かりやすいように補足をしています。
生を明らめ 死を明らむるは 仏家一大事の因縁なり、生死の中に仏あれば生死なし、但生死すなわち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし、 是時初めて生死を離るる分あり唯一大事因縁と究尽すべし。〈第一節〉
生きるとは何か、死ぬとは何か、この疑問を明らかにすることは、仏さまの説かれた教えを信じる者にとって一番大切な問題です。生きるとは何か、死ぬとは何か、この問題を仏さまの目線で正しく見ることが出来たらなら、生きる死ぬという問題に迷い苦しむことはありません。ただ、生死は涅槃である{私は生まれてやがて死んでしまうという諸行無常の苦しみは、自分のこの命も宇宙全体の生命活動の中の一つであると気が付き、前向きに安らかにそして幸せに生ききる事だ}と気づく事が出来たなら、生まれ死ぬと忌み嫌う事もなく、そこから解放されたいと望む事もありません。この時初めて生死という苦しみから解放されたものとなり得ます。人生にとって一番大大切な問題として究め尽くさなければなりません。
人身得ること難し仏法値うこと希なり、今我等宿善の助くるに依りて、已に受け難き人身を受けたるのみに非ず、遭い難き仏法に値い奉れり、生死の中の善生、最勝の生なるべし最勝の善身を徒にして 露命を無常の風に任すること勿れ。〈第二節〉
人間として生まれる事は簡単な事ではありません。また仏さまの教えに出逢う事は容易い事ではありません。今私たちは無数の縁に助けられて、無数に存在する生命の中で人間として生まれ、さらに仏さまが説いて下さった教えにも巡り逢う事が出来ました。この善き生まれは最高の生まれであり、この最高のかけがえない人生をいたずらに露のように無常の風に任せて散らしてはいけません。
無常憑み難し、知らず露命いかなる 道の草にか落ちん、身已に私に非ず、命は光陰に移されて暫くも停め難し、紅顔いづくへか去りにし、尋ねんとするに蹤跡なし。熟観ずる所に往事の再び逢うべからざる多し、無常忽ちにいたるときは国王大臣親昵従僕妻子珍宝たすくる無し、唯独り黄泉に趣くのみなり己に随い行くは只是れ善悪業等のみなり。〈第三節〉
無常であるこの世界はあてにならず、この露のような命は、いつ・どこの道の草の上に落ちて消えてしまうかわかりません。私だと思い込んでいるこの身体は私のものではなく、命は常に変化し一刻も同じではありません。若々しかったあの面影はどこへいってしまったのでしょうか。尋ねようとしてもその証跡はありません。よくよく思い返してみると、もう出逢う事が出来ない事ばかりです。死の訪れを感じた時には、国王や大臣、親しい人々、使用人や妻や子供、価値ある財宝は助けてくれません。ただ一人であの世へ旅立って行かなくてはならないのです。あの世へ旅立つ自分に付いてくるものは、自分の行った善い行いと悪い行いだけです。
今の世に因果を知らず、業報を明らめず、三世を知らず善悪を弁まえざる邪見の党侶には群すべからず、大凡因果の道理歴然として私なし、造悪の者は堕ち、修善の者は陞る、毫釐もたがわざるなり、 若し因果亡虚しからんが如きは、諸仏の出世あるべからず、祖師の西来あるべからず。〈第四節〉
今この世に因果の法則を知らず、自らの行動の報いを考えず、過去・現在・未来の連続性を知らず、善悪の行いをわきまえない誤った見解の者たちと行動を共にしてはいけません。私が今このように存在しているのは、自ら行った善悪の原因と結果の繰り返しによって存在しているのです。悪を行うものは堕落し、善を行うものは進歩していきます。微塵も疑いようがありません。もしこの因果の法則が誤りであるならば、諸々の仏さまが世にお生まれになる事もなければ、達磨大師がインドから中国へ教えを伝える事もありえません。
善悪の報に三時あり、一者順現報受、二者順次生受、三者順後次受、これを三時という、仏祖の道を修習するには、 其の最初よりこの三時の業報の理を効い験らむるなり、爾あらざれば多く錯りて邪見に堕つるなり。但邪見に堕つるのみに非ず、悪道に堕ちて長時の苦を受く。〈第五節〉
善悪の影響が現れるのには三つの時があります。一つはすぐ現われる時、二つは次の代で現われる時、三つは次の次の代で現われる時です。仏の教えを学んでいくには、この三つの時を考え、自ら納得しなくてはなりません。そうでないと誤った見解に落ちることになります。それだけでなく大きく道を踏み外し、長い苦しみの道を歩む事になりかねません。
当に知るべし 今生の我身二つ無し、三つ無し、 徒らに邪見に堕ちて虚しく悪業を感得せん惜からざらめや、悪を造りながら悪に非ずと思い、悪の報あるべからずと邪思惟するに依りて悪の報を感得せざるには非ず。〈第六節〉
まさに知るべきです。今生きている私は2つや3つありはしません。いたずらに誤った見解に落ちて、虚しく悪い行いの報いを受けるのは本当に惜しい事です。悪い行いをしても悪行だとは思わず、悪の報いなど受けないと誤った考えを持ったとしても、その報いを受けないはずはないのです。
◎参考文献
『対照 修証義 1分3分5分法話実例集成』 池田魯山
『″そのままのあなた″からはじめる「修証義」入門』 大童法慧
『「正法眼蔵」全巻解説』 木村清孝
『新訳 修証義』 上田祖峯
『修証義』 洞松寺 現代語訳本